映画「沈黙-サイレンス-」
2017年、映画館で観る2作目はこちら。
映画「沈黙-サイレンス-」
島原の乱後の日本。
かつての恩師・フェレイラが棄教したとの知らせに、ロドリゴたちふたりの若い司祭が密か日本へ渡ってきた…というところから始まるお話。
原作を読んでいて、この先何が起こるのか知っているのですが、それでもなんというか…、あまりにも辛く哀しく、救いがない物語だ…と思います。
自分のなかに確固たる宗教を持たない私にはよく分からないのですが、信仰をもつ人にとっては、棄教すること、崇拝しているものを足で踏みつける行為、それはすべて、自分というもののすべて、もしくはその一部が無くなってしまうような大変なことなんだろうなあと思います。それを、国が禁止したから…という理由で「転ぶ(棄教する)」ことを強要されるのはどんなにか辛いことだろう…と思います。
それとは別に、日本人の宗教観を「自然のものにしか神を見出せない」と触れている場面があるのですが、日本人としては、それの何が悪いのかわからないなあという気持ちはあります。とはいえ、その日本人らしい宗教観とキリスト教が結びついたとき、それは多分キリスト教とは別の何かなんだ…というのは、それはそうだろうなあと思うし、キリスト教を信じる人々にとってはそれは許しがたいことなんだろうなあと思います。
原作の小説を読んでいるときも、この映画を観ているときも、日本人は、というか幕府は、なぜこんなにも苛烈な弾圧をおこない、しかもフェレイラやロドリゴなどパードレを転ばすことに執拗に拘ったのはなぜだろう…と考えていました。
私はこれは、刀や弓や鉄砲を使うわけではないけれど、外からやってきたキリスト教というものに対する「戦」だったんだろうな…と思います。パードレは敵対する軍勢の大将のようなもの。そういう心のよりどころとなるなるような人を攻略し、下の者の意志をくじき、この先正しく教え導く人を奪っていく…。精神的なきつさで、滅ぼしたい人たちを内から崩していく…、恐ろしい「戦」ではないかと。
キリスト教を布教しようとしていた国にも、宗教を使って日本を思い通りにしようという思惑がなかったとは言えないと思うので、お互い様なのかもしれさせんが…。
現在、世界中で宗教的な問題が根にある争いがたくさん起こっています。それを思うとき、宗教や信仰って人が幸せになるためにあるはずなのに、いつの時代も争いを起こすもとなんだなあ…とやるせない気持ちになりますが、そういうたくさんのことを考える凄い作品に触れることができたのは、幸せなことだと思います。
« 沈黙(小説) | トップページ | おんな城主直虎:4 »
「映画」カテゴリの記事
- 5月の観たい映画(2021.05.06)
- 4月の観たい映画その後(2021.05.06)
- 4月の観たい映画(2021.04.01)
- 3月の観たい映画その後(2021.03.31)
- 3月の観たい映画(2021.04.01)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント